yotuya-townにて、創造社会


「表現する人と創造社会」


人は表現しないと生きていけない生き物だ。


だれしも自分が思った事考えた事をなんらかの形で外に出そうとする。

人同士が関わりあう世界を生きる上で、この衝動は本能だと思う。

人は人とコミュニケーションするから。

コミュニケーションをとるには何か情報を発信しなければならない。

表現しなければならない。

となると、

表現の目的(の一つ)は、外部とのコミュニケーションかもしれない。

ともあれ、

内に湧き出たものを表現するとそれは情報となって人々に届くのが、この世界。



人にはそれぞれ、処理できる情報量にキャパシティがあった。


人口増加、情報飽和で、人は自分が接する物事に優先順位をつけざるをえない。

情報、誰かの表現には優劣がつく。

もしも劣と評価された情報は放置されて、

本来の目的(?)のコミュニケーションは成立しない。

また、表現への評価は、その人自身への評価になる。

人が優先順位をつけながら生きていく世界で、自身が劣と評価される事は、恐ろしいこと。

そうすると、下手に不特定多数に情報を発信しない方が合理的。

劣かもしれないものを発信することは怖いと信じた瞬間から、

その人は発信不信になる。

もしくは、よくなじんだ自分を守ってくれるコミュニティの中だけでしか表現しない。



情報技術がどんどん発達して、

その技術は、人の情報処理速度、効率を爆発的に持ち上げた。

人の処理能力自体はパワーアップしてないけど、人を手伝う仕組みができた。

人はその仕組みを上手く使う能力も身につけつつある。



情報に優劣がつく現状は依然として変わっていないけれど、

優劣をつけるギャラリーの数が爆発的に増えた。

様々な人が、様々な情報に、様々な角度から価値を見出すようになった。

そうなると、今まで表現を控えていた人々も、

この奇跡の流通網に乗せれば、評価云々、何かが起こるかもしれない、

と、可能性を感じ始め、更に快感を感じ始める。

人は可能性に敏感なのだ。

そして人々はいよいよ表現ホリックになる。


不特定多数のギャラリーに向けて発信する人が増えると、

それに伴って、表現を助け、表現を促す仕組みが必然的に生み出され、

人々は更に表現・発信しまくる。


世界中の人々が世界中の人々に対して何かしらの表現・情報を発信する社会が出来始めた。

これが噂の創造社会なのか。